阪本屋歴史物語

初代 阪本敏夫(さかもととしお)


私たちのおじいちゃんは昭和33年から、農家さんからお米を仕入れ、阪神間へ行商に行っていました。当時はオートバイで14kgのお米を4つだけ積んで篠山から約60km離れた尼崎の塚口まで行っていたそうです。お米だけでは食べていけないので、元々手先が器用だったこともあり、大工仕事のお手伝いもしながら生計を立てていました。大きな声では言えないのですが…次男(まさる)が小学校3年生の時に夏休みの工作でパチンコ台(スマートボールのようなもの)を作ったのですが、ほぼおじいちゃんに手伝ってもらいなんと大賞をとってしまいました‼‼‼小学校3年生らしからぬ完成度で、同学年では群を抜いての工作の出来でした(笑)また、おじいちゃんは旅行が大好きで、歯の治療の為に月に1回、2泊3日で四国まで車で行くこともあったようです。(うらやましいな~)そんなおじいちゃんが阪本屋の始まりでした。

2代目 阪本和成(さかもとかずなり)

私たちの父は大学を卒業してからはスーパーで働いていました。本当はオーディオや家電などに携わる仕事をしたかったようです。ですが、そのスーパーで働いているうちに、「いくら売っても会社の利益になるだけで自分には返ってこない…これやったら自分で商売したほうがおもしろい‼」と思い、当時29歳で副店長という役職だったにも関わらず「篠山に帰って商売をしよう!」と思ったそうです。先代のおじいちゃんから「わしらのくいぶちが減るから帰ってくるな‼」と反対されましたが、それでも無理やり帰ってきたそうです。

帰ってきてから1年後に篠山城跡近くに1年だけという契約で仮店舗を構え、初めのうちはお米の他にもポン菓子、日用品、飲料などを売っていました。その当時は現金商売で、支払いは月末だった為、母は「少しお金貯まってきたな~…こんなけ余裕があるなら定期預金しよ♪」と思い定期預金をしました。…が、月末になり父が支払いをしようと思ったらお金がない‼慌てて定期預金を解約し、なんとか無事に支払いをすませたそうです。

そんな父が1年の間にターニングポイントとなったのは、丹波篠山産のお米の評価に気づいたことでした。それからは、丹波篠山産のお米や特産品を活かした商売へシフトチェンジしていきました。

なんとかその1年の間に現在の場所に阪本屋の店舗を構えることができ、徐々にお客様も増えていったそうです。

商売を始めたばかりの頃は色々とすったもんだはあったようですが、私たちの両親が現在の阪本屋の基礎を築いてくれました。

3代目(予定) 阪本ブラザーズ 阪本尚士(さかもとひさし)・勝(まさる)

私たち、兄(ひさし)は2012年、弟(まさる)は2014年に篠山に帰ってきました。
ただ、私たちが帰ってこなければ、父の代で阪本屋を終わりにしようと思っていたようです。ですが、兄が帰ってくると決まった夏に、まだまだ阪本屋は続くであろうと思い、今までは2階にあり、ご迷惑をおかけしていたお客様用入り口を1階にした店舗を新しく建て直しました。その時、阪本屋に十分な貯えがあったわけではなく、大部分を銀行に借りての建て替えだった為、父に「お前らが頑張って借金返せよ!」とかなりプレッシャーのかかる言葉をもらい、「うそ~~~~~~ん‼‼‼‼」と心の中で叫んでしまいました(笑)

私たちは子供の頃から商売を見て、その忙しさは肌で感じてきました。ですので、私たちは常々「早く両親を楽にさせてあげたいな~」と思っています。それを叶えるにはまだまだ未熟な私たちですが、両親のようにお客様、お取引先様そして従業員に信頼していただけるように努めてまいります。至らぬ点は多々あるとは思いますが、これからも私たち兄弟を始め、丹波篠山 阪本屋をよろしくお願いいたします。